日出:06:04(+1)
南中:11:22(±0)
日入:16:39(−1)
月出:15:07(+27)
南中:21:12(+46)
月入:03:26(+65)
天気:くもり 時々 晴れ
気温:10℃〜16℃
風:北北東 3m
湿度:%
作業:(農事・作事)
二十日大根(野口の種コメット)・かつお菜(華さんから)の種蒔き
ター菜(正子中泉さんから頂いた苗)の定植
使用具:
資材:
備考:
つくば市並木の交流センターで、門脇厚司先生による大正期の自由教育に関する講演会に参加した。
戦間期の日本で、いわゆる大正デモクラシーと呼ばれる比較的自由な空気に満たされていた時代に、教育の世界でもさまざまな試みがなされた、その一つとしての「池袋児童の村小学校」に関する先生による長年の調査の結果を一冊の本として出版されたことを記念する講演会が、NPO法人スマイル・ステーション主催、つくば市教育委員会後援によってつくば市並木交流センターで開催された。
内容に関しては、『大正自由教育が育てた力: 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』門脇厚司著を参照していただくことにして、オラの理解では、とことん「子ども主体」を貫き、子どもの持つ破壊性や思いやりなどを、大人の常識や偏った考え方で縛ることなく、自らが考え学んでいく力を伸ばすことに注力した先達の教育を現代にも一つの範として生かしていこうという先生の考え方、すなわちそれこそが社会力を培う教育だという考え方をまとめていると思われる。
その学校の設立にあたって『児童の村』と名付けた、その想いは「子どもと教師による共同の生活体」を築くことにあったということだ。しかし野口援太郎が創設したその学校は12年の短いいのちであった。その原因としては、教育に高学歴取得を求める保護者の思惑、あるいは教育に国家統制を求める時代の空気などが考えられる。
大人社会や国家が子供に求める「教育」と野口援太郎太郎が求める子どもの「学び」との確執に「児童の村」は敗れていったということか。
大人社会あるいは国家が子供に求めるものが「教育」とするならば、「教育」とはその時代時代の制度にしか過ぎない。
一方で、野口が子供に施そうとしたものは、この世に生を承け幸せな命を全うすることが人間の生命であるならば、児童のうちからそのような生命をまっとうする力をつける「学び」の力を養おうとすることではなかったろうか。
それこそが制度としての教育ではなく、人間が人間として融通無碍に生きること、すなわち「何ものにもとらわれることなく、何ものにも妨げられることなく」幸せに生きる人間を育てることにあったのではないだろうか。
そんな講演会からの帰り道、突然華さんから土浦市で開催される「花火大会」への誘いが来た。
ちょっと迷ったが行くことにした。
車で行っては帰り道が渋滞で難儀することは目に見えていたので、車は土浦の手前の荒川沖に駐車し、電車で向かった。
花火大会は5時半から始まるということで、6時頃に土浦に着いたが、すぐに観客人たちの大渋滞に巻き込まれ、普段なら10分で行ける華さんが指定してくれた橋の袂まで40分近くかかった。
ところが、その指定の場所に華さん、ゆづくんは居らず、小一時間くらいあちこち探し回った挙句、7時半頃にようやく二人に行き会えた。
近くで出店している零戦さんのお店で観覧していたようだ。
花火を最後の最後まで観覧して、8時半頃、いざ帰ろうとすると、案の定、車、車の大渋滞。
華さんたちには申し訳なかったが、オラは一人、徒歩で駅まで向かった。
ところが、駅に着くと駅の階段に登るのにも帰り客たちの人、人、人の大渋滞にはまって、電車に乗れたのが10時14分。
荒川沖のパーキングに戻ったのが10時半過ぎ。ところがまの悪いことに、パーキングは現金のみで、手元の小銭が足りないかもしれない。千円札すらない。仕方なしにあちこち両替できる場所を探したが、それも見当たらず、やむなく「飯だけでもいいか?」と言って居酒屋で食いたくもない寿司6貫を食べて小銭を崩し、やっとパーキングに戻って料金の精算所に駐車券を入れたら、なんと料金は350円である。
あぁ〜、350円ならはなから財布に入っていたのに〜、というオチで、家にたどり着いたのは深更を過ぎていた。
今回で土浦の花火大会は三度目だが、もう二度と土浦の花火大会にはいかないと思う。
以上